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教科書本文
直実の流した涙──平家物語「敦盛の最期」──
『平家物語』は、平家一門の興亡のありさまや、源氏との激しい合戦を描いた物語です。この物語は、次のような文章で始まっています。
祇園精舎
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
祇園精舎の鐘の音には、諸行無常の響きがある。沙羅双樹の花の色は、盛者必衰の道理を表している。おごりたかぶっている人も長くは続かない、(それは)まるで春の夜の夢のようだ。力の強い者もいつかは滅びてしまう、(それは)全く風の前の塵と同じだ。
ここで語られているのは、どのような栄華も永遠に続くことはなく、必ず滅びる時が来る、という仏教的な思想です。それは「無常」という言葉に集約することができるでしょう。次に紹介する「敦盛の最期」にも、そのような思いを見ることができます。
京の都で栄華を極めていた平家を討ち破るため、源頼朝は東国の武士たちに呼びかけて挙兵しました。そして、平清盛の死後統制が失われつつあった平家を、ついに寿永二(一一八三)年七月、都から西国へと追いやりました。その後、平家は勢いを盛り返し、都を奪還しようと、須磨の一の谷に兵を集結してきました。それを撃破しようと、源範頼・義経を大将とする源氏の軍勢が向かいました。その中には、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実がいました。寿永三年二月七日の早朝、直実は息子の小次郎とたった二騎で、平家の陣に攻め入りました。大将の命令を待たずに行動したのは、人よりも先に手柄をあげるためでした。直実と小次郎とは、勇猛に戦い、多くの敵の兵を討ちとりましたが、小次郎は左腕を負傷してしまいました。
その後、両軍が相対しての激しい合戦となりましたが、義経の率いる軍勢が一の谷の後方から急な坂を下って攻め込むと、平家は総崩れとなって海上へ逃れました。やや遅れて、海へ馬を乗り入れた平家の武将に、直実が、
「平家の大将軍とお見受けした。卑怯にも敵に後ろ姿をお見せになるのか。引き返されよ。」
と声をかけると、その武将は引き返してきました。
敦盛の最期
汀にうち上がらんとするところに、おし並べてむずと組んでどうど落ち、とつておさへて首をかかんと甲をおしあふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧して、かねぐろなり。わが子の小次郎がよはひほどにて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。
「そもそもいかなる人にてましまし候ふぞ。名のらせたまへ。助けまゐらせん。」
と申せば、
「なんぢはたそ。」
と問ひたまふ。
「物そのもので候はねども、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実。」
と名のり申す。
「さては、なんぢにあうては名のるまじいぞ。なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも首をとつて人に問へ。見知らうずるぞ。」
とぞのたまひける。
熊谷、「あつぱれ、大将軍や。この人一人討ちたてまつたりとも、負くべきいくさに勝つべきやうもなし。また討ちたてまつらずとも、勝つべきいくさに負くることもよもあらじ。小次郎が薄手負うたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、この殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆きたまはんずらん。あはれ助けたてまつらばや。」と思ひて、後ろをきつと見ければ、土肥、梶原五十騎ばかりで続いたり。熊谷涙をおさへて申しけるは、
「助けまゐらせんとは存じ候へども、味方の軍兵、雲霞のごとく候ふ。よものがれさせたまはじ。人手にかけまゐらせんより、同じくは、直実が手にかけまゐらせて、後の御孝養をこそつかまつり候はめ。」
と申しければ、
「ただとくとく首をとれ。」
とぞのたまひける。
熊谷あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべきことならねば、泣く泣く首をぞかいてんげる。
「あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかる憂きめをばみるべき。情けなうも討ちたてまつるものかな。」
とかきくどき、袖を顔に押しあててさめざめとぞ泣きゐたる。やや久しうあつて、さてもあるべきならねば、鎧直垂をとつて、首を包まんとしけるに、錦の袋に入れたる笛をぞ、腰にさされたる。
「あないとほし、この暁、城の内にて管絃したまひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に、東国の勢何万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛持つ人はよもあらじ。上﨟は、なほもやさしかりけり。」
とて、九郎御曹司の見参に入れたりければ、これを見る人、涙を流さずといふことなし。
後に聞けば、修理大夫経盛の子息に大夫敦盛とて、生年十七にぞなられける。
それよりしてこそ熊谷が発心の思ひはすすみけれ。
平家は一の谷の敗戦の後、四国の屋島に逃れていきました。義経は、一年ほどかけて水軍を整え、平家の背後から急襲し、瀬戸内海に追いやることになります。そして、およそ一か月の後、壇の浦で最後の決戦を行い、平家は敗れ、主だった武将たちは海中深く沈みます。それは、文治元(一一八五)年三月二十四日で、平清盛が太政大臣に任ぜられてから十八年後のことでした。
過去に出題された問題
「汀にうち上がらんとする」とあるが、これは誰の行動か。現代語の解説の中から五字で抜き出しなさい。
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「甲をおしあふのけて見ければ」とあるが、これは誰の行動か。現代語の解説の中から抜き出しなさい。
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「年十六七ばかりなる」とあるが、これは誰のことか。
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「美麗なりければ」の口語訳を答えなさい。
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「いづくに刀を立つべしともおぼえず(どこに刀を突きさしたらよいかもわからない)」とあるが、これはなぜか。
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美しい顔を傷つけたくなかったから。
「なんぢはたそ」とあるが、なぜ自分の名は名のらず相手の名をたずねたのか。
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「なんぢにあうては名のるまじいぞ」とあるが、これは、平家の武将が熊谷のことをどう判断したからか。
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自分より身分の低い直実に名のる必要はないと考えているから。
「なんぢがためにはよい敵」とあるが、「よい敵」とはどういうことか。
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「のたまひける」の「のたまふ」を口語訳しなさい。
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直実が、敦盛に対し、『あつぱれ、大将軍や。』と感じた理由を答えなさい。
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「助けたてまつらばや」とあるが、熊谷はなぜこう思ったのか。
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同じ子を持つ身で、武将の父親の悲しみがわかるから。
「よものがれさせたまはじ」の口語訳をしなさい。
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直実が『よものがれさせたまはじ』と判断した理由にあたる言葉を古文中から抜き出して答えなさい。
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「同じくは」とあるが、熊谷は、同じことなら、何よりも何のほうがよいと考えたのか。
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『ただとくとく首をとれ』言ったのはだれか、また、そこから感じられる気持ちを答えなさい。
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いさぎよさ
「ただとくとく首をとれ」とあるが、平家の武将のこのような冷静な態度と対照的な、熊谷のうろたえた心情を表現している部分を文章中から二十二字で探し、初めと終わりの四字を抜き出しなさい。
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