『山月記』の登場人物、あらすじ
主人公:李徴(りちょう)
才能にあふれた青年だったが、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」によって挫折し、才能を磨くことも人々と交わることもしなくなってしまった。ついには、発狂して虎と化す。
袁傪(えんさん)
主人公の親友。虎と化した李徴(りちょう)と出会い、猛獣になってしまった理由を聞く。
『山月記』の教科書本文、七段落構成
段落分けは、時間の推移、場面の展開から、以下の七段落に分けられる。
第一段落:李徴という男
隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)は博学才穎(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉(こうなんい)に補せられたが、
隴西…地名。現在の中国の甘粛省(かんしゅくしょう)
博学…広く学問に通じていること
天宝…742年から756年までの期間
虎榜…科挙の合格者
江南尉…江南地方の役人
補せられた…任務を与えられた
性、狷介(けんかい)、自(みずか)ら恃(たの)むところ頗(すこぶ)る厚く、賤吏(せんり)に甘んずるを潔(いさぎよ)しとしなかった。
性…性格
狷介(けんかい)…志を固く守って、人と打ち解けないこと
自(みずか)ら恃(たの)む…自分をたよりにする、プライドがある
賤吏(せんり)…下級の役人
甘んずる…満足する
潔(いさぎよ)しとしなかった…良い事としなかった、受け入れなかった
いくばくもなく官を退いた後は、故山(こざん)、虢略(かくりゃく)に帰臥(きが)し、人と交まじわりを絶って、ひたすら詩作に耽(ふけ)った。
いくばくもなく…いくらもない。わずかしかない。*ここでは、時間が「まもなくして」という意味。
故山(こざん)…ふるさと。故郷。
虢略(かくりゃく)…地名。現在の河南省西部の霊宝県あたり。
帰臥(きが)…故郷に帰り、静かに暮らすこと。
下吏(かり)となって長く膝(ひざ)を俗悪な大官(だいかん)の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺(のこ)そうとしたのである。
下吏(かり)…下級の役人
膝(ひざ)を~屈する…服従する
しかし、文名(ぶんめい)は容易に揚(あが)らず、生活は日を逐(お)うて苦しくなる。李徴は漸(ようや)く焦躁(しょうそう)に駆(か)られて来た。
文名(ぶんめい)が揚(あが)る…詩人・文章家として名声が上がる
焦躁(しょうそう)に駆(か)られる…あせる気持ちに追われる
この頃からその容貌(ようぼう)も峭刻(しょうこく)となり、肉落ち骨秀(ひい)で、眼光のみ徒(いたず)らに炯々(けいけい)として、曾(かつ)て進士(しんし)に登第(とうだい)した頃の豊頬(ほうきょう)の美少年の俤(おもかげ)は、何処(どこ)に求めようもない。
峭刻(しょうこく)…きびしくむごいこと。
骨秀(ひい)で…やせて骨ばって
徒(いたず)らに…無駄に。 成果を伴わないさま。
炯々(けいけい)として…鋭く光り輝く
進士(しんし)…中国の試験である科挙の合格者。
登第(とうだい)した…合格した
数年の後、貧窮(ひんきゅう)に堪(た)えず、妻子の衣食のために遂(つい)に節(せつ)を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉(ほう)ずることになった。
節(せつ)を屈して…これまで守ってきた信念を曲げて
職を奉(ほう)ずる…仕事をいただく、職に就く
一方、これは、己(おのれ)の詩業に半ば絶望したためでもある。曾(かつ)ての同輩は既に遥(はる)か高位に進み、彼が昔、鈍物(どんぶつ)として歯牙(しが)にもかけなかったその連中の下命(かめい)を拝(はい)さねばならぬことが、往年(おうねん)の儁才(しゅんさい)李徴の自尊心(じそんしん)を如何(いか)に傷(きずつ)けたかは、想像に難(かた)くない。
鈍物(どんぶつ)…才知のにぶい人
歯牙(しが)にもかけなかった…気にもしなかった
下命(かめい)を拝(はい)さねばならぬ…命令に従わなければならない
往年(おうねん)…昔。過ぎ去った年。
自尊心(じそんしん)…プライド。自分が優れているという気持ち。
想像に難(かた)くない…想像するのが簡単だ
彼は怏々(おうおう)として楽しまず、狂悖(きょうはい)の性は愈々(いよいよ)抑え難がたくなった。
怏々(おうおう)として…晴れ晴れしないさま。心が満ち足りないさま。
狂悖(きょうはい)…良心を失って、道理に反すること。非常識で不道徳な言動をすること。
性…性格
一年の後、公用で旅に出、汝水(じょすい)のほとりに宿(やど)った時、遂に発狂した。
汝水(じょすい)…川の名前。現在の河南省にある淮水(わいすい)の一支流。
宿(やど)った… 寄生する。寄り付く。とどまる。
或(ある)夜半(やはん)、急に顔色を変えて寝床(ねどこ)から起き上がると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇やみの中へ駈(か)け出した。
夜半(やはん)…夜の間
★時間区分
夕べ(ゆふべ)
→宵(よひ)…日が暮れてすぐの夜の初めごろ
→夜半(よは)…夜が深まってから明け方の少し前くらい
→暁(あかつき)…夜が明けそうになる頃
→曙(あけぼの)…夜がほのぼのと明けはじめる頃
→朝ぼらけ(あさぼらけ)…朝、空がほのかに明るくなった時
→朝(あした)
彼は二度と戻もどって来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰だれもなかった。
第二段落:袁傪(えんさん)との再会
翌年、監察御史(かんさつぎょし)、陳郡(ちんぐん)の袁傪(えんさん)という者、勅命(ちょくめい)を奉じて嶺南(れいなん)に使(つかい)し、途(みち)に商於(しょうお)の地に宿った。
監察御史(かんさつぎょし)…中国で、官吏を監察し、また、地方を巡察して行政を監視した官。
陳郡(ちんぐん)…地名。現在の河南省周口市一帯の地域
勅命(ちょくめい)を奉じて…皇帝の命令を承(うけたまわ)って
嶺南(れいなん)…地名。現在の広東省、広西チワン族自治区、海南省の全域と、湖南省、江西省の一部にあたる
途(みち)に…目的地までの途中で
商於(しょうお)…地名。嶺南の近く。
次の朝未(ま)だ暗い中(うち)に出発しようとしたところ、駅吏(えきり)が言うことに、これから先の道に人喰虎(ひとくいどら)が出る故(ゆえ)、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜(よろ)しいでしょうと。
駅吏(えきり)…宿駅の役人
袁傪(えんさん)は、しかし、供廻(ともまわ)りの多勢なのを恃(たの)み、駅吏(えきり)の言葉を斥(しりぞ)けて、出発した。
供廻(ともまわ)り…お供の人々
恃(たの)み…頼んで
駅吏(えきり)…宿駅の役人
残月(ざんげつ)の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果(はた)して一匹の猛虎(もうこ)が叢(くさむら)の中から躍り出た。
残月の光…明け方まで残っている月の光
果(はた)して…言ったとおりに。本当に。
虎は、あわや袁傪(えんさん)に躍りかかるかと見えたが、忽(たちま)ち身を飜(ひるがえ)して、元の叢(くさむら)に隠れた。
あわや…危なく。今にも。
身を飜(ひるがえ)して…身体の向きをすばやく変えて
叢(くさむら)の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟(つぶや)くのが聞えた。その声に袁傪(えんさん)は聞き憶(おぼ)えがあった。驚懼(きょうく)の中にも、彼は咄嗟(とっさ)に思いあたって、叫んだ。「その声は、我が友、李徴子(りちょうし)ではないか?」袁傪(えんさん)は李徴(りちょう)と同年に進士(しんし)の第に登り、友人の少かった李徴(りちょう)にとっては、最も親しい友であった。
驚懼(きょうく)…驚きおそれること。
李徴子…「~子」は、同輩(どうはい:年齢・経歴などに上下先後の別のない者。)の男子を呼ぶときの敬称。
第に登り…試験に合格し
温和な袁傪(えんさん)の性格が、峻峭(しゅんしょう)な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。
峻峭(しゅんしょう)…山などが高くけわしいさま。きびしいさま。けだかくすぐれているさま。
叢(くさむら)の中からは、暫(しばら)く返辞が無かった。しのび泣きかと思われる微(かす)かな声が時々洩(も)れるばかりである。
しのび泣き…声を立てずに泣くこと。
ややあって、低い声が答えた。「如何(いか)にも自分は隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)である」と。
袁傪(えんさん)は恐怖を忘れ、馬から下りて叢(くさむら)に近づき、懐(なつ)かしげに久闊(きゅうかつ)を叙(じょ)した。
ややあって…少し時を経たのち。しばらくして。
如何(いか)にも…確かにその通りだ。
久闊(きゅうかつ)を叙(じょ)した…久しぶりの挨拶をした
そして、何故なぜ叢(くさむら)から出て来ないのかと問うた。李徴の声が答えて言う。自分は今や異類(いるい)の身となっている。どうして、おめおめと故人(とも)の前にあさましい姿をさらせようか。
異類(いるい)…人間でないもの。*この場面では獣のこと。
おめおめと…恥知らずなさま。
あさましい…みじめだ。いやしい。嘆かわしい。
かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭(いふけんえん)の情を起させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも故人(とも)に遇(あ)うことを得て、愧赧(きたん)の念をも忘れる程に懐かしい。
畏怖嫌厭(いふけんえん)…おそれ嫌悪する気持ち。
図らずも…思いがけず
愧赧(きたん)の念…恥ずかしさに顔を赤らめる思い
どうか、ほんの暫(しばら)くでいいから、我が醜悪(しゅうあく)な今の外形を厭(いと)わず、曾(かつ)て君の友 李徴(りちょう)であったこの自分と話を交してくれないだろうか。
厭(いと)わず…嫌わず
後で考えれば不思議だったが、その時、袁傪(えんさん)は、この超自然(ちょうしぜん)の怪異(かいい)を、実に素直に受容(うけい)れて、少しも怪(あや)しもうとしなかった。彼は部下に命じて行列の進行を停(と)め、自分は叢(くさむら)の傍(かたわら)に立って、見えざる声と対談した。
超自然(ちょうしぜん)…自然を越えた
怪異(かいい)…不思議なこと
見えざる声…姿が見えない草むらの中にいる袁傪(えんさん)の声
都の噂(うわさ)、旧友の消息(しょうそく)、袁傪(えんさん)が現在の地位、それに対する李徴の祝辞(しゅくじ)。青年時代に親しかった者同志の、あの隔(へだ)てのない語調で、それ等(ら)が語られた後、袁傪(えんさん)は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊(たず)ねた。叢中(そうちゅう)の声は次のように語った。
叢中(そうちゅう)の声…草むらの中にいる袁傪(えんさん)の声
第三段落:李徴の独白
今から一年程前、自分が旅に出て汝水(じょすい)のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼(め)を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻(しき)りに自分を招く。
汝水(じょすい)…川の名前。現在の河南省にある淮水(わいすい)の一支流。
覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時(いつ)しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫(つか)んで走っていた。何か身体からだ中に力が充(み)ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。
覚えず…知らず知らずのうちに
気が付くと、手先や肱(ひじ)のあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。自分は初め目を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。
目を信じなかった…見たものが信じられなかった
どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然(ぼうぜん)とした。そうして懼(おそ)れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼(おそ)れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判(わか)らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
茫然(ぼうぜん)…なんだか分からず、ぼんやりした。
問題 理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ、このときどういう気持ちか。
解答 押しつけられたものに憤りながらも、受け入れて生きていくしかないというやるせない気持ち。
自分は直(す)ぐに死を想(おも)うた。しかし、その時、眼の前を一匹の兎(うさぎ)が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽(たちま)ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗(まみ)れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。
問題 自分の中の人間は忽(たちま)ち姿を消した、とはどういうことか。
解答 虎になった李徴の中に残っていた人間の心が消えて、虎としての獣の本能が目覚めたということ。
それ以来今までにどんな所行(しょぎょう)をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還(かえ)って来る。そういう時には、曾(かつ)ての日と同じく、人語も操(あやつ)れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書(けいしょ)の章句(しょうく)を誦(そら)んずることも出来る。
所行(しょぎょう)…振る舞い。行い。
忍びない…(気の毒で)自分がそうすることにたえられない。
経書…儒教の経典(きょうてん)のこと。
誦(そら)んずる…暗唱する
その人間の心で、虎としての己(おのれ)の残虐(ざんぎゃく)な行いのあとを見、己(おのれ)の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤(いきどお)ろしい。
しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。
問題 おれ、という一人称を使った理由はなにか。
解答 人間の心が徐々に侵食されることで余裕を無くなっているから。(人間の心が侵食され、心境を吐露するのに率直な言葉を使わずにいられなくなっているため。など)
これは恐しいことだ。今少し経(た)てば、おれの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋(うも)れて消えて了(しま)うだろう。ちょうど、古い宮殿の礎(いしずえ)が次第に土砂に埋没するように。そうすれば、しまいに おれは自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人(とも)と認めることなく、君を裂き喰(くろ)うて何の悔も感じないだろう。
問題 古い宮殿の礎(いしずえ)が次第に土砂に埋没するように、とあるが何をたとえた表現か。
解答 人間の心が、獣としての習慣の中に埋もれて消えてしまうこと。
一体、獣でも人間でも、もとは何か他(ほか)のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了(しま)い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。おれの中の人間の心がすっかり消えて了(しま)えば、恐らく、その方が、おれはしあわせになれるだろう。
だのに、おれの中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀(かな)しく、切なく思っているだろう! 己(おれ)が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己(おれ)と同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。己(おれ)がすっかり人間でなくなって了(しま)う前に、一つ頼んで置きたいことがある。
問題 おれの中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じている、とはどういう気持ちか。
解答 自分の中に人間の心が残っているせいで罪の意識を覚えて苦しまなくてはならない反面、自分が人間であった証として人間の心を決して忘れたくないという気持ち。
*相反する感情や考え方を同時に心に抱いている(アンビバレント:ambivalent)気持ち。
第四段落:李徴の願い
袁傪(えんさん)はじめ一行は、息をのんで、叢中(そうちゅう)の声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う。
他でもない。自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立ち至った。曾(かつ)て作るところの詩数百篇(ぺん)、固(もと)より、まだ世に行われておらぬ。遺稿(いこう)の所在も最早(もはや)判らなくなっていよう。
息をのんで…はっと驚く。息を止める。*この場面では、呼吸を抑えて静かにしている意味≒息を凝らす。
世に行われておらぬ…世の中に知られていない
遺稿(いこう)…死後に残る原稿
ところで、その中、今も尚(なお)記誦(きしょう)せるものが数十ある。これを我が為(ため)に伝録(でんろく)して戴(いただ)きたいのだ。何も、これに仍(よ)って一人前の詩人面(づら)をしたいのではない。作の巧拙(こうせつ)は知らず、とにかく、産(さん)を破り心を狂わせてまで自分が生涯(しょうがい)それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。
伝録(でんろく)…書き記して伝える
作の巧拙(こうせつ)は知らず…作品が優れているかつまらないかは分からない
産(さん)を破り…破産し、財産を失い、
問題 産(さん)を破り心を狂わせてまで自分が生涯(しょうがい)それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。、とあるがどういう気持ちか。
解答 財産を失い発狂してまで執着した詩を、虎になった今もなお捨てることができない、李徴の詩を深く愛する気持ち。
袁傪(えんさん)は部下に命じ、筆を執って叢中(そうちゅう)の声に随(したが)って書きとらせた。李徴の声は叢(くさむら)の中から朗々(ろうろう)と響いた。長短凡(およ)そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪(えんさん)は感嘆しながらも漠然(ばくぜん)と次のように感じていた。成程(なるほど)、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処(どこ)か(非常に微妙な点に於(おい)て)欠けるところがあるのではないか、と。
朗々(ろうろう)…声が大きく、澄んではっきりしているようす。
格調高雅… 品があって美しいさま。
意趣卓逸…考え方がすぐれていること。
非凡…一般の人よりずっとすぐれていること。
旧詩を吐き終った李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲(あざけ)るか如(ごと)くに言った。
羞(はずか)しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己(おれ)は、己(おれ)の詩集が長安(ちょうあん)風流人士(ふうりゅうじんし)の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟(がんくつ)の中に横たわって見る夢にだよ。嗤(わら)ってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。
(袁傪(えんさん)は昔の青年李徴の自嘲癖(じちょうへき)を思い出しながら、哀しく聞いていた。)
風流人士(ふうりゅうじんし)…風流を愛し、教養や地位のある人々。
自嘲癖(じちょうへき)…自分で自分のことを馬鹿にして笑うくせのこと。
そうだ。お笑い草(ぐさ)ついでに、今の懐(おもい)を即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾(かつ)ての李徴が生きているしるしに。
袁傪(えんさん)は又 下吏(かり)に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。
お笑い草(ぐさ)…お笑いのネタ。笑いを誘う材料。
下吏(かり)…下級の役人
偶因狂疾成殊類 (たまたま狂疾(きょうしつ)によつて殊類(しゅるい)となる)
災患相仍不可逃 (災患(さいかん)あひよつて逃るべからず)
今日爪牙誰敢敵 (今日は爪牙(そうが)たれかあへて敵せんや)
当時声跡共相高 (当時は声跡(せいせき)ともにあひ高かりき)
我為異物蓬茅下 (我は異物となりて蓬茅(ほうぼう)の下にあれども)
君已乗軺気勢豪 (君はすでに軺(よう)に乗りて気勢豪なり)
此夕渓山対明月 (この夕べ渓山(けいざん)明月(けいげつ)に対し)
不成長嘯但成嘷 (長嘯(ちょうしょう)を成さずしてただ嘷(こう)を成すのみ)
思いがけず狂気に取りつかれ異類(獣)となった
災いが重なりあって逃れることができない
今ではこの爪と牙に勝てる者は誰もいない
かつてはよい評判が二人ともに相高かった
私は異形の身となって雑草のもとにいるが
君はすでに伝令の車に乗り勢い盛んである
この夜に、谷や山にかかる明月へ向かって
詩を吟ずることはできずほえ叫ぶばかりだ
第五段落:李徴が虎に変わった理由
時に、残月、光冷やかに、白露(はくろ)は地に滋(しげ)く、樹間(じゅかん)を渡る冷風は既に暁(あかつき)の近きを告げていた。人々は最早(もはや)、事の奇異(きい)を忘れ、粛然(しゅくぜん)として、この詩人の薄倖(はっこう)を嘆じた。李徴の声は再び続ける。
時に、残月、光冷やかに…夜明けが近づいて残月の光が色を失っていくさま
暁(あかつき)…夜明け
奇異(きい)…あやしく不思議な事
粛然(しゅくぜん)…おごそかで静かなさま
何故(なぜ)こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依(よ)れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、おれは努めて人との交(まじわり)を避けた。人々はおれを倨傲(きょごう)だ、尊大(そんだい)だといった。実は、それが殆(ほとん)ど羞恥心(しゅうちしん)に近いものであることを、人々は知らなかった。
倨傲(きょごう)…おごり高ぶること。自分の態度が、意図せずに周囲から偉そうで自分達を見下していると感じ取られるようなこと。傲慢。
尊大(そんだい)…いばって、他人を見下げるような態度をとること。高慢。横柄。
羞恥心(しゅうちしん)…自分の過ちや思い違いなどによって生じる苦しい感情のこと。はずかしい気持ちになり屈辱感を味わうこと。
勿論(もちろん)、曾(かつ)ての郷党(きょうとう)の鬼才といわれた自分に、自尊心(じそんしん)が無かったとは云(い)わない。しかし、それは臆病(おくびょう)な自尊心(じそんしん)とでもいうべきものであった。おれは詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨(せっさたくま)に努めたりすることをしなかった。かといって、又、おれは俗物の間に伍(ご)することも潔(いさぎよ)しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。
郷党(きょうとう)の鬼才…郷里の仲間の中で特にすぐれた才能の持ち主。
自尊心(じそんしん)…プライド。自分が優れているという気持ち。
俗物の間に伍(ご)する…つまらない人間同士と同列に並ぶ
問題 我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心、とあるがどういうものか。
解答 自分の詩の才能を信じつつもその才能が本物でないことを恐れて人と交わらないことと、自分の才能が本物のでないことを恐れながらも自分は俗物ではないと思うこと。
己(おのれ)の珠(たま)に非(あら)ざることを惧(おそ)れるが故(ゆえ)に、敢(あえ)て刻苦して磨(みが)こうともせず、又、己(おのれ)の珠(たま)なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦(かわら)に伍することも出来なかった。おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶(ふんもん)と慙恚(ざんい)とによって益々(ますます)己(おのれ)の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。
珠(たま)…優れた才能
碌々(ろくろく)として…平凡で役に立たないさま。たいした事もできないさま。
瓦(かわら)…値打ちのないもの。 *この場面では、平凡な才能の持ち主を表す。
伍する…同等の位置に並ぶ。肩を並べる。仲間入りする。
憤悶(ふんもん)…怒りや不満などで憤り悶(もだ)えること。
慙恚(ざんい)…恥ずかしく思い、怒ること。
問題 珠(たま)とあるが、これと対比された語を書き抜きなさい。
解答 瓦(かわら)
人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。
これがおれを損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、おれの外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了(しま)ったのだ。今思えば、全く、おれは、おれの有(も)っていた僅(わず)かばかりの才能を空費して了(しま)った訳だ。人生は何事をも為(な)さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句(けいく)を弄(ろう)しながら、事実は、才能の不足を暴露(ばくろ)するかも知れないとの卑怯(ひきょう)な危惧(きぐ)と、刻苦を厭(いと)う怠惰とがおれの凡(すべ)てだったのだ。
警句(けいく)…短文で、物事の真理や奇抜なすぐれた考えを含ませた言葉。
弄(ろう)する…からかう。 もてあそぶ。いじる。
卑怯(ひきょう)な危惧(きぐ)…勇気がなく恐れているだけなさま。
おれよりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一(せんいつ)に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、おれは漸(ようや)くそれに気が付いた。それを思うと、おれは今も胸を灼(や)かれるような悔(くい)を感じる。おれには最早(もはや)人間としての生活は出来ない。たとえ、今、おれが頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、おれの頭は日毎(ひごと)に虎に近づいて行く。
胸を灼(や)かれるような…ひどく思いわずらう
どうすればいいのだ。おれの空費された過去は? おれは堪(たま)らなくなる。そういう時、おれは、向うの山の頂の巖(いわ)に上り、空谷(くうこく)に向って吼(ほ)える。
この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。おれは昨夕(さくゆう)も、彼処(あそこ)で月に向って咆(ほ)えた。誰かにこの苦しみが分って貰(もら)えないかと。
しかし、獣どもはおれの声を聞いて、唯(ただ)、懼(おそ)れ、ひれ伏すばかり。山も樹(き)も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮(たけ)っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人おれの気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、おれの傷つき易(やす)い内心を誰も理解してくれなかったように。おれの毛皮の濡(ぬ)れたのは、夜露(よつゆ)のためばかりではない。
哮(たけ)る…大声でさけぶ。 ほえさけぶ。 激しくほえる。
問題 おれの毛皮の濡(ぬ)れたのは、夜露(よつゆ)のためばかりではない。、とあるがこれはどういうことか。
解答 虎の姿になってからも、誰にも理解されない悲しみの涙を流していたということ。
第六段落:李徴との別れ
漸(ようや)く四辺(あたり)の暗さが薄らいで来た。木の間を伝って、何処(どこ)からか、暁角(ぎょうかく)が哀しげに響き始めた。
最早(もはや)、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼等(かれら)は未(ま)だ虢略(かくりゃく)にいる。固(もと)より、おれの運命に就いては知る筈(はず)がない。君が南から帰ったら、おれは既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐(あわ)れんで、今後とも道塗(どうと)に飢凍(きとう)することのないように計らって戴(いただ)けるならば、自分にとって、恩倖(おんこう)、これに過ぎたるは莫(な)い。
暁角(ぎょうかく)…夜明けをつげる角笛(つのぶえ)
虢略(かくりゃく)…中国の江南にある地名。
道塗(どうと)…道。
恩倖(おんこう)…神または天子が与える特別のめぐみ、いつくしみ。
言い終って、叢中(そうちゅう)から慟哭(どうこく)の声が聞えた。袁傪(えんさん)もまた涙を泛(うか)べ、欣(よろこ)んで李徴の意に副(そ)いたい旨(むね)を答えた。李徴の声はしかし忽(たちま)ち又先刻の自嘲(じちょう)的な調子に戻(もど)って、言った。本当は、先(ま)ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、おれが人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己(おのれ)の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕(おと)すのだ。
慟哭(どうこく)…悲しみに耐えきれずに声を上げて泣くこと。
身を堕(おと)す…堕落する。道義心を失ってあさましいものになる。
そうして、附加(つけくわ)えて言うことに、袁傪(えんさん)が嶺南からの帰途には決してこの途(みち)を通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人(とも)を認めずに襲いかかるかも知れないから。又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方(こちら)を振りかえって見て貰いたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇(ゆう)に誇(ほこ)ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、以(もっ)て、再び此処(ここ)を過ぎて自分に会おうとの気持ちを君に起させない為であると。
勇(ゆう)に誇(ほこ)ろう…勇ましい姿を見せつけていばること。
お目にかける…「見せる」の謙譲語。 自分が目上の相手に対して何かを見せること。
*「お目にかかる」は「会う」の謙譲語。
第七段落:虎の咆哮
袁傪(えんさん)は叢(くさむら)に向って、懇(ねんご)ろに別れの言葉を述べ、馬に上った。叢(くさむら)の中からは、又、堪(た)え得ざるが如き悲泣(ひきゅう)の声が洩(も)れた。袁傪(えんさん)も幾度か叢(くさむら)を振返りながら、涙の中に出発した。
懇(ねんご)ろに…丁寧に
一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振り返って、先程の林間の草地を眺(なが)めた。忽(たちま)ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮(ほうこう)したかと思うと、又、元の叢(くさむら)に躍り入って、再びその姿を見なかった。
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